なのに3ヶ月ぶりの書き込み。じつはこっそり過去の記事を思い出しながら書いていたり。

それにしても更新は滞っているわけで。


ベロー〇ェでは最近、時責のs(注1)にこういわれた

「〇川くん、ベロー〇ェで、誰のおっ〇い一番吸いたい?」



「そーですねぇ、・・・」

とすらいえず。sの大胆さか、発言に伴うベロー〇ェ内の錯綜する人間関係からの悪影響からか、チェ〇ーボーイだからか。とにかくリアクションしようがない・・・



最近後輩から

「先輩、卒論ヤバいんですけど」

これはリアクションできる。



「(書式どおりやって、)文字書きゃ、単位はくるよ


そろそろ俺が先輩として役に立たないということに気づけ。

否、多分ワラにもすがる思いか、単なる挨拶ことばだろう。


最近全てが空しい・・・

阿佐田哲也の『麻雀放浪記』に李億春という指を数本潰された人物がでてくる。

「…李という男の特徴は、生きるということに関してまったく無責任であり、自分の生に意味づけや値定めをして、みずから慰めようとしないことである。」

「李にとってこの世は、喰って生きてる、或いは生きた、というだけのもので、したがって彼の一生は喰うために争った、ということ以上の重要なモメントはない。」(注2)

李の生き方には、崇高や美徳、倫理、文明といった虚飾、釈迦の手の内で釈迦を罵倒する孫悟空の傲慢さがない。

 

理念や学識の多くは、人の上に立とうとする者、或いは人を自分の土俵に入れようとする者の、権威付けの道具となる。突き詰めても、阿佐田のいう「自分の生に意味づけや値定め」するための、或いは「みずから慰めようとする」ための方便に過ぎないのではないか。


自らの権威を高めようとするあまり、自らの首を我知らずに締めていく様は、夏目漱石の作品によく描かれている。当時は主にエリート知識人だけの問題だっただろうが、普通教育がなされてきた現在の日本では国民性と言えるほどの状態である。今の日本人は律儀すぎる(そのように教育・洗脳されたか)。世の中、合理性と効率、筋が通っているかどうかを追求していく生きかたでは、追い詰められた精神になる。しかし、精神を追い込んでゆくサイクルは、グローバル化の現在もはや止めようがないように見える。


楳図かずおの漫画『洗脳』(注3)で、日本一の美貌で家族の生計と、自分の価値観を立ててきた女優、若草いずみはその美貌を失っていく現実と恐怖から、狂気となって村上医師の幻影をつくりだす。最終的に村上医師は老女優から消えるが、作品は「いびつな者は自分でそれを感じることができない そしてそれを感じたものがいびつにされる! 狂った世界の中にただ一人狂わない者がいたとしたらはたしてどちらが狂っていると思うだろう?」と結ばれている。


人間は価値観を作り、目標を設定して努力する。時に他者もそれに動員させようとする。自分の美貌を獲得し保つため、幻影である村上医師の助言を遵守する若草いずみと、人は誰しも共通しているのではないか。単に程度の差があるだけである。


娘さくらの体を乗っ取り美貌を獲得した若草いずみ(実はさくらの思い込み)は、安心するも束の間、美貌を失う恐れはむしろ強まっていく。ここにも人間全般にある問題があるように思える。

問題解決した、或いは進歩したと思っても、またその段階で、新たな問題があり、自らの至らない点を発見する。問題のない、波風のない世界、天下泰平とは、むしろ今の社会では望むべくもない最悪の想定かもしれない。


羽賀先生は剣道と生き方について「捨てる」「必然の変化」「こだわらないこと」を言っておられたと聞く。

また或いは剣道の名人は、むしろ刀が不要となると言う話を聞いた。

李億春のような生き方ができればなと思うが、それには論が先走り、実体験がないからか、まだ多くにこだわってしまう。

刀が要らなくなるまでには、刀を振る時間が、自分にはまだまだ多く要するということだろうか。


注1:土地ころがしの常連客に「お前はほんとにしたたかな女だな」と決め付けられた御仁。全くの見当違いとは思わない。御本人「わたし、ホンットにじゅんじょうですよ」、だそうで。

注2:阿佐田哲也『麻雀放浪記(四)番外編』、1979年、角川文庫、p85。

注3:作者のエログロ・ロリコン趣味がこれでもか!とばかり。