無機質に時間が過ぎていく毎日である。今日は先日居合の稽古による掌の怪我(出血量と針数5本の割には軽症、不痛)で近くの病院に行き、その後学校に行こうと駅につくと、


駅員が担架を急いで運んでいる。担架にはシートがかけられていて、横たわっているであろう人の様子がわからないのと、通常こういった場合ごたついているはずの周囲の雰囲気は落ち着いているのが奇妙に思われた。ホームに上がるやアナウンス「当駅におきまして人身事故が発生しましたおかげでダイヤが・・・」。二時間ほど前のことらしい。


我があざみ野駅で人身事故というのはここに越してきて15年弱聞いたことがない。そうない機会だと薄情な気持ちで事故の痕跡が目に止まるのを密かに思いながら、病院以来渇いた喉をうるおそうと自販機のあるところまで歩いていく。途中の線路の枕木のブロックに少し赤くぬれている箇所があった。数人の駅員が「もうそれとわかるようなものはないですね」と言いながら駆けていった。


周りの人をみると薄ら笑っている人もいれば、よくあることだと無関心の顔をしている人もいる。はしゃいでいる女の子たちもいた。自分、そしておそらく周りの人々にとっても不幸な事故というよりは好奇心に値するイベントなのだ。そう車内で思いながら、ふと魯迅の「幻灯事件」のエピソードが浮かんだ。


日本留学中、魯迅は授業でスライドを日本人・中国人学生で見ていた。そのスライドの中にはスパイとされた一人の中国人が日本の官憲によって斬首されているものもあったが、魯迅はそれに対して中国人学生が無関心で他人事のようにしているのを見てショックを受けた、というエピソードである。


この魯迅の話はもちろんナショナリズムの文脈で考えるのが重要であるが、自分が思っていたのは「日本人(自分も含め)も魯迅にでてくる中国人と変わらないなあ。何が先進国だ。」、というものであった。


外国にはまれにしか行った事がないが、東アジア各国の国民性を自分なりに考えると、以下のようになる。

日本人:墓を守る石像。風体は人語に落ちぬが、陰険で愛想がない。冷たくツンと澄ましている

朝鮮人:熱血な「おとうと」。よく人を思い遣り、謙譲心篤いが愛憎などの熱い気持ちを内にたぎらせる

中国人:酒の百戦錬磨。常に酔っ払いのごとく自分の意思表示を明確に(時に誇張)示すが、しらふな現実主義からは逸脱しない。


今日は自分の世界観を書きとめようとしたがつい長くなってしまったので、後日にしよう。見出しだけ

「自分とは、世界(神)の一部であり、世界が現出する一時の現象である」

「自分の眼球も道に転がる小石も犬の糞も元来は同じ価値であり、貴賎はない」