一昨日実家が引っ越した。15年過ごした横浜北部の新興住宅地から首都圏の周縁、天狗の住む山の裏の谷へ。自分は鈍感であるから感慨は今のところ湧いてこない。

今湧いてくる感慨はZARDである。

自分は古くからのファンではない。もちろん「負けないで」「心を開いて」「マイフレンド」などは耳覚えはしていた。じっくり聞き始めたのは大学2年から。カラオケのネタになるだろうという、世俗極まる動機からである。

ベスト版を借りてMDに録音しておそらく十日も経たない時、剣道の交流試合に出させてもらったが、ひどい負け方をした。おまけに試合のマナーが悪いということで彼此双方の先輩の激怒を買った。帰りの終電で一人悔しさで泣きながらそのMDを聞いたことが印象深い。(結局自分が納得する雪辱は得られず大学での剣道を終えた)

 このMDはその数ヵ月後どこかにいってしまった。今では矢沢永吉と布袋寅泰と並んで中心に聞くアーティストであるが、当時はそこまで聞き込むほどではなく、そのまま聞かなくなった。

 再び聞き出したのは3年後、前にも述べたとおり中国旅行直前にZARDのライブDVDを買ったときから。37歳にもかかわらず恥ずかしそうに歌う坂井泉水さんにかなりハイテンションになったことはそう古い記憶ではない。ちょくちょくDVDを前のMDがわりに聞いていたが、実際にアルバムを(Book Off)かい出したのはそれから一年後、去年のことである。

 最初に買ったのが「君とのDistance」、「止まっていた時計が今動き出した」だった。十周年の際のアルバム以外全てのオリジナルアルバムを持っているが、やはり上記の二つのアルバムつまりここ最近の作品が一番聞き応えがある。

 

 矢沢永吉、布袋寅泰もそうだが、自分はベテラン、現時点で円熟を迎えているアーティストの作品を聞く傾向にある。これは自己省察の一つの側面になりえるが、おそらく一つは天邪鬼な性格があって、今流行の曲を聴かない傾向による。もう一つは中年に入るベテランの歌唱力が若手のそれを凌ぎ、聞く人に落ち着きと感慨をもたらす事である。また一つ、これは深層心理かもしれないがベテランであることに安心して聞ける、言わば依存心から来る保守性であろう。若々しい曲に触れ、そのアーティストの表現世界を味わうことは新鮮であるが、反面面倒なことである。(もとから聞かなければよいのだが…)

 

 ZARDに関しては、全盛期といわれる90年代中ごろを中心とした曲は、確かにいいメロディーだし、坂井泉水さんの声もよく出ているのだが、どこかアイドル、「歌姫」といったもの、華やかであるがどこか軽々しく感じるところがあり、飽きやすい。それよりむしろ、スポットライトが離れ、不調から立ち直ったここ最近の作品の方が味わい深い。ただ現実を謳歌する如くの青年期から、十年スパンで時間を経験し過去と向き合いつつ生きる人の気持ちがこもっている中年期へ。多少無理に流行りに合わせようとしたり、アレンジの実験で失敗たり、時事を反映する歌詞を不器用に入れたりするところがあるが、それは試行錯誤のあとであるし、ベテランの歌唱があれば余り問題でない。

 この2作品について、自分の感覚の中でそれ以前の作品と違う点は、「アジアを感じる」ことである。

主観ここに極まるというべきだろう。たしかに「君とのDistance」で歌われている「あなたと共に生きていく」はそもそもテレサ・テンに歌詞を提供したもので(あまり売れなかったが)、今回間奏で中国語の台詞が入っている。しかし、それを抜きにしてもこの2作品はアジア、「東アジア」を感じるのである。

今から二年前、自分は中国を旅行した。中国ではグローバル化という名のアメリカナイゼーション、脱亜入欧が暴力的に進められ、古いものが破壊されている渦中にあった。日本の階層の二極化よりはるかに重層的で深刻な格差社会が展開されていた。実際無味乾燥だがとりあえず近代的であるインフラ建設が進むのは都市の表面部分を中心に限定される。日本で言う中産階級はもちろん大規模に出現しているが、都市下層の人々は悲惨でホームレスというよりは乞食、浮浪者というにふさわしい人を多く見かけた。都市も郊外になると古い家屋を見かけたり、公衆トイレは有料でそれも穴を掘って板を渡しただけの半公開()のものが一般的だったり。

 どうしたことか、帰国して一年後に聞いたこのZARD2作品の諸曲がこうした中国での光景にしっくりくるのである。アニメやドラマのオープニング、エンディングや合間に挿入曲やテーマ曲が流れるが、あの自分が経験した中国の光景にそうしたBGMを入れるとしたら間違いなくこの2作品から選ぶだろう。逆にZARDのそれ以前の曲はしっくりもこなれければ脳裏に浮かんでもこないのである。

 テレサテンに歌詞を提供した曲を坂井さんが歌ったのは、スターであるテレサ・テンとの縁を意識したものであって、中国や東アジアに繋がると意識したものではなさそうである。プロモーション映像やライブでのモニター映像ではパリやアメリカの国道、モナコの街などヨーロッパ趣向のものが多い。週刊誌の記事によると、彼女が旅行しようとした、或いは行ったのはパリやグアムなどで、伝統的なアジア地域ではなかった。(テレサ・テンもパリは好きであった)

 自分としてはライブのモニター映像等を見て、欧米志向だなあと感じていた。観光において日本人はアジアへの関心が増えつつあるが、アジアは地味でダサい欧米は華やかでオシャレだという意識が根本から消えていない。海外では日本人は外見は黄色(アジア)だが中身は白く(欧米)、「バナナ」であるとも揶揄される。このように欧米志向の意識は何もZARDだけの問題ではもちろん無いわけである。ともすれば東アジア全体の問題かもしれない。中国では他のアジア諸国家の例に漏れず、市場経済とアメリカ式スタイルを追いかけながら、歴史と伝統を政略と商品に再編し、民族の差異や慣習を無視している。便利一辺倒で画一的な建設を続けながら、伝統的な建物や風景を破壊している。進歩と合理の名の下、人々と地域を市場と消費に動員し続けている。

 2004年と2005年に出されたZARDの作品にはとりたててアジア回帰という意識はない。ではなぜ自分の中でこの2作品に「アジアを感じる」のだろうか……

 アジアには欧米に内在する文明化、進歩のベクトルに自らを邁進させねばならないという強い磁力が作用する潮流が19世紀後期以降流れている。円熟までの時間アジア世界の一つ日本に生活し続けた坂井泉水さんの歌唱にはそうしたアジアの潮流の空気を自ずと帯びており、それ故自分の中の現代中国の情景にしっくりくるのかもしれない。

 この2作品にある諸曲は不条理を強く帯びるアジアの潮流に意識するしないにかかわらず生きていく人々への、応援歌のように感じられる部分が自分にはある。

 坂井さんの訃報は韓国や台湾でも取り上げられた。北京や上海など中国沿海部でも多くは無いがファンは確かにいる。

 ここ最近になって味わいのある歌唱でアジアを自分に意識させるようになったZARDの作品がもう出ないことは非常に残念である。

 

 最後に。自分が親しんだベテランアーティストの一人が亡くなった。このことは自分に別の意味を暗黙裡に提起しているような気がする。それは多くの作品を発表し、己の生きた証しを残し、輝きを発した後にこの世から去ったということで、次はあなたが自分の生きている証し(もちろん人によって様々)を立てる時が来ているのだというメッセージが後に残されているのだ。