4ヶ月ぶりの書き込みにもかかわらず、下世話な話から

独創性もなくだらだらつづる。


ヤフーニュースから亀田大毅の謝罪会見の記事と画像を見た。


亀田兄弟や先日の試合などについての感想をここで滔々と披露するつもりはない。

一応、数年前に「めちゃイケ」(ヤベッちずし)で出演した興毅が、岡村隆司に向かって、

岡村の持つミットにではなくみぞおちにパンチを入れた時点より

自分は一貫して亀田親子への不信の念を連続させていたことを吐露するに留めておこう。


今日の会見報道に際し自分の脳裏を支配したのは、亀田親子への感情よりむしろ

大毅の容姿における会見時とそれ以前(内藤戦調印式など)とのコントラストであり、

そこからくる社会の特質への感慨である。


会見時の大毅の様子はそれ以前と視覚的に全く対照的であった。

逆立つ金髪から丸刈りへ、顎の突き出しからうつむき状態へ、

原色のジャケットから黒の背広へ、原色のTシャツから白のワイシャツへ。

総じてあたかも成り上がり者から公判での被告か刑を待つ囚人へ。

視聴者は以前のイメージとのギャップを明瞭に与えられるのである。


こうした視覚的効果を与える大毅の装いや態度について、

心身ともに憔悴しているのか、父史郎の描いた戦略のシナリオの「型」に忠実であるのか、

実はふてくされているだけなのか。

色々見方はできるが、もちろん本当はどうであるか当事者でしかわからない。


にもかかわらず、こうした会見はテレビや新聞などのマスメディアに情報的に隷属している我々において、

パフォーマンス、セレモニー、記号としての意義しか最終的には残らない。

我々にそうさせるのは誰か?


亀田親子か?

不十分である。

会見を主催した側、場所を提供した者、

いつもの「謝罪会見」の通りシャッターを切り続けるカメラマン、質問をする記者は亀田と同罪である。

彼らは共犯して「謝罪会見」という舞台、式典を作り上げているのである。

そしてもちろん共犯者はこれにとどまらない。決定的な共犯者はその式典を見る我々、視聴者である。


謝罪会見のような所作はマスメディアに報道されることを前提にした、型にはめられた儀礼である。


メディアの報道によって「悪質」であるとされた場合、その「悪質」な行為をした側への非難や分析が

その件の報道の時間を排他的に占有する。次にその「世論」に対するその「悪質」な行為者の反応が、

「釈明」なり「謝罪」なりの会見やコメントなどの形をとってなされる。今度はそれに対して報道側の反応が、

事態の推移を踏まえつつ行われ、並行してこの事例の話題性は減退していく。


こうしたことは暗黙的に固定化、形式化された手順である。事態の沈静化のためには

そうした所作を「謝罪会見」型に踏んでいくことが有効的なものとして、亀田側の者の意識に

反映されていたことは否めないであろう(誠意の有無を問わず)。


我々が亀田親子のこうした式典の共犯者であるのは、

謝罪の姿勢を報道上に載せる、映す以外に彼ら亀田側の反省なり釈明なりの

誠意を想像しにくいことからも露になるのではないか。

我々はこうした儀礼の型に従う所作が行われる事を通じてしか、

報道される者の「姿勢」や「誠意」を認めることは困難なのである。


もちろんこうしたことは、メディアなどによって大規模に情報化された領域以外でも

人間社会では普遍的に見られることである。任侠が指を詰めたり、武士が割腹したりする

ことは典型的な謝罪の儀礼であるし、すれ違いざま肩が衝突した際一声詫びて通り過ぎるのも儀礼である。


ただ、現代においてこうした儀礼、約束された所作は特異な風を帯びている様に見える。

情報が大量に流動して空虚化、記号化がなされる状況にあっては儀礼に内包するその時々、あるいはそれまでの経緯を背負った感情や主観は認識されるゆとりを与えられず、むしろその儀礼という行為、事項自体が重要な存在となる状況を呈しているのである。


様々な社会の事項、儀式において一つ一つの所作は、

かなり疑わしいことがあるが一応、理屈が裏に打たれている。

論理が保たれていること、理に適うことはいわゆる科学に基づくとされる現代文明において

決定的要素であり、その要素を指標に特殊化、専化することを進歩として我々の多くは

肯定的に信仰している。


しかし、情報が大量に標識化して流動する只中でそれを「消費する」ことはあっても、それに反応を示したり介入することを網羅的にするのは不可能である。つまり、その情報にある事項や所作に筋が通っているか、理に明らかであるか吟味するゆとりはないのである。そのゆとりを見出すのは自分が従事・関与している専門化・特殊化された一部の領域でかろうじて可能なわけである。それ以外の情報は受け入れるか、拒否するかの選択だけである(この選択も記号的だ)。

近代以前、世界の各地域が異なる空間概念に生き、各地方がある程度自律的に形成されていた時代、

世界的に普遍化した地域概念に統一されるほど流通や意思疎通の手段や環境が整う以前の時代、

人は自分の経験や感覚で情報にある具体的な文脈や中身について主観的に吟味するゆとりがあった

(むしろそれ以外の情報の受容は乏しかった)。


対照的に、我々は事項について標識に記されているだけのもの、記号化された情報、

儀礼化された所作に、実態や内容を知覚しないまま規定され、機械的に反応している。

謝罪に対して、更なる悪罵を加えることはあってもそれ以上の具体的な制裁は加えない。

酒席に語られる苦労話や友情譚に感動する、それに対応する人生訓に基づくコメントで返す。

政府の出す政策には必ず問題点を挙げて反応し、決して全面的に賛同しない。

「家族の愛」や試練に耐えて達成する「ガチンコ」ものについて賞賛する。

死亡した者に対して非難をしない。

こうした儀礼に逸脱した場合、その時点では賛同者がでるよりも奇異な目で見られたり、一意見として沙汰止みにされる。少なくとも理に適った「まっとうなもの」とは見なされない。

もっとも初出の逸脱者に続いて逸脱が連続する場合がある。

それが一つの儀礼となる場合もあろう。


恨みもない見知らぬ人(多くは自分よりも弱者)に危害を加え、時に殺害に至る事件を起こすものが最近跡を絶たない。こうした事件の犯人は「おかしい」のだろうか。心神耗弱していたのだろうか。


上述したような思考をする立場からして、そうではない可能性も考えられる。

つまり、彼らは標識に過ぎない情報と定型化された儀礼の社会から踏み外したかもしれないが、

自らの感覚、直接的経験に基づいて世界に生きようとした点において「生き物」として正直であったのではないか(集団内の生活においてこれは非常に破壊的行為であるが)。

内容が分からない、自分が直接知覚によって納得できない理に適っている(であろう)情報の標識や規定された儀礼に身を委ねる者か、絶対的な規範でさえ自らの知覚でその内容を把握しようとする者か、世間を認識するに「正しい」のはどちらであろうか。或いはどちらかが「正しい」とされるがそれはそれぞれどのような事態に直面した際の判断であろうか。