夏を跨いでの更新。

最近ZARDにはまっている。


「古い!」とバイト先で突っ込まれたが、

生来の古いもの好き(進取の気がない臆病なだけか?)ゆえしかたがない。


一人で聞いてるとニヤけてくるほどである。去年買ったDVD「What a beautiful moment 」になるともう大変である。

ちなみに去年中国行く前日に買って見て、翌日ハイテンションになりながら出国した。

一番ニヤける曲は「Oh my love」だが、一番好きな曲というわけではない。

ZARDのよさは気品の高さと現代社会を生きる女の強さの調和にある。


好きな曲は「あの微笑みを忘れないで」、「心を開いて」など。

前者はベロー〇ェの着信音にしている。理由は自分と女性との接点がそこしかないというみすぼらしい現実ゆえである。

ちなみに高校(男子校)の校長の教育方針は「25歳の男づくり」という格調の高いものであったが、

今の自分としては「25歳までの彼女づくり」が核心であろう。


話が脱線したがアルバムは「もう探さない」、「hold me」 。

前者はZARDの中でももっともとっつきにくいジャケットだが、一気に聞けてしまう佳作。

後者収録の「遠い日のNostalgia」は泣けてしまう。

物心つくか否かの時期がちょうどバブル期にあたるため

デジタルサウンドを多用したダンサブルな曲調にはまりがちなのか

バブル期の残滓が残るこの時期のアルバムを好むのかもしれない。


売り上げが下火になった後期の作品はまだ聞いていないが、「もっと近くで君の横顔見ていたい」など

いい曲もあるので、漁ってみようと思う。そう、まだ全曲聴いたわけではないのだ。


と、最後に。自分はZARDもこのようにすきだし、布袋寅泰の曲はカラオケの十八番だし、玉置浩二も最近はまりつつある。しかし、自分の音楽性について背骨、最大の存在をしめているのは

なんといっても矢沢永吉である。


例えていえばヨーロッパにおけるキリスト教、中華人民共和国における中国共産党、日本右翼にとっての天皇制くらいの存在感である。

書き込みすると、どうしても長くなるな・・・


ベロー〇ェ:


 半年前に今の店長に。初代店長「苦烈婦」に劣らぬ程気に入られている。苦烈婦とは違う点。全く合理的な考え方である。シフトにバイトをたっぷり入れ、備品も揃えてくれる。慎重で無理のない仕事をさせてくれるいい店長である。歴代3人目で一番バランスがとれている。

 

 が、しかし今バイトをやめたくて仕方がない。まず研究に集中できない。どうしてもバイト月10回くらい入ってしまうはめになり、集中力のない自分としては研究に没頭できない。これは博士の先輩にも言われた。


第二に後進が優秀であり、自分は微妙だということ。喫茶店といった接客関係の仕事というのは、多方面に気が利くことが重要である。向き不向きもあってできる人はすぐできるが、向かない人はどうやら限界があるらしい。ミスドをやめたときこの点を決定的には認識していなかった。3年やってて未だに散漫で詰めが甘い自分と、半年足らずで時責クラスの働きをする後進。意外に自尊心が高く、性根の価値観が古い(年功序列、男尊女卑)自分にとってこれがだんだんバイト倦怠の要因となってきた。根本原因に苦烈婦時代まじめに働かなかった自分にあることが、よりそれに拍車をかける。


第三にナメられている、といった印象である。自分は他人に、気の優しい面白い人間だと思われることが多い。自分もそう思われた方が世渡りしやすいと思い、それに甘んじたり時にわざと自分で演じることもある。しかしそれ一偏になると自分の中の自尊心と葛藤を生じるのである。現実的に気の優しい、へりくだった態度は人を付け上がらせるし、面白い人間像は容易に馬鹿にすべき対象へ置換される。他人をアッと言わせる能力が今これといってない以上、こうした態度押し続けることは損を蒙りかねない。もう少し人から嫌われてもいい、愛想がなくていい、人につけこまれない人間になりたい。ストイックな生き方も考えもので、見方を変えれば「ええかっこしー」である。もうすこし卑劣に生きよう。強度のない器では、いくら大きくてもだめなのだ。


こんなことを考えながら店長には降格一回、退職二回お願いしてみたが、却下された。「お前は頼りになる存在だよ、がんばれよ」と慰留されたのだ。その言葉うそではないだろう。しかし「頼りになる」の意味が自分と違うと思う。店長をはじめ他のバイトにすれば「小回りがきいて使い勝手がいい、便利だ」というものでさしずめ小間使い、便利屋として「頼りになる」ということだろう。しかし自分が思う「頼りになる」は、責任を任せるに値する畏敬される存在としての働きである。


オープニングメンバーが先月一人やめた。本店最強のバイトにして美人の「鉄人」である。彼女は日曜以外基本的に毎日シフトを入れていたフリーターだった。もう仕事に飽き飽きしたそうだ。しばらくしたら実家の九州に帰りたいとも言った。彼女はやりつくし、仕事をきっちりこなし尽くした「勝利者」として辞めた。じぶんはどうだろう。「敗残者」である。仕事をいい加減にしつづけたのである。それでもいい一回べろー〇ぇ「敗北」宣言して、再出発をしたいのである。趨勢決まるもグダグダ続くこの負け戦を清算せねばなるまい。

 早稲田の古本屋街で、辻政信の著作『潜行三千里』(s23)を見つけた。

辻は戦前のエリート将校で、あの瀬島龍三の先輩にあたる。辻は功名心が強く、責任転嫁や無謀な作戦をする、まあ帝国軍人の汚点の権化である(見事に成功した作戦もあり、無能というわけでもないがそこが厄介な参謀たるゆえん)。シンガポールで英兵の人肉を食べた(!)戦犯嫌疑で戦後終われるも、蒋介石の密命を受けたといって東南アジア、中国を逃げ回り、その体験談を帰国後出版したのがこの本である。ベストセラーになり、その勢いも借りて辻は見事に衆議員に当選した(その後インドシナの民族運動に加勢しに行くといって潜行、そのまま行方不明)。

 

 大売出しであったこともあり、神保町などに行けばよく目にするものだが、自分の研究領域に近いと思って今回かったのだ。840円のこの本を後で開くといきなり以下のページ。 「潜行三千里決定版」の箇所は題字と同じ字体で印刷とわかるが問題は「敬贈 大橋武夫様 辻政信」の箇所。


光にかざすと題字とは違った色合いでインク(墨)の流蹟がある。直筆だ。「敬贈 ~様」とあるから偽者とは考えにくい。・・・・・


本物である。辻政信が大橋武夫なる人物に贈ったのだ。大橋武夫てだれだ?


と思い、辻政信とセットで検索すると、陸軍士官学校を辻より4期下で卒業し、陸軍中佐までになる。戦後は東洋精密工業社長、偕行社副会長など。孫子や史記などをモチーフに、兵法と自身の軍人経験からビジネスマンのための経営論を述べていく作品を多く出版している。


・・・・。


自分のスタンスは「仕切られるのも仕切るのも嫌い」である(それじゃ世の中渡ってゆけぬという輩を行動で黙らせるのが自分の人生の夢の一つ)。したがって大橋さんは、


きらいである。経営者、まず嫌い。兵法からの経営論、ますます。軍人の経験から←自分は元左翼(今は?)ゆえ更に嫌い。そして古典をモチーフ←権威主義者の諸手法はここに画龍の点睛を加えらる。


そして辻政信。エリート、無責任、目立ちたがり屋・・・・・・。

言うまでもない。あえテ言うと、「こういう人間がいる限り、自分はその抵抗の存在として、生きていく価値があるものになる」。


ここまで言ったものの、辻政信の直筆である。


う~~~ん。例えて言うなら、

「好きでもない女に限って好かれてしまう」、だろうか。

無機質に時間が過ぎていく毎日である。今日は先日居合の稽古による掌の怪我(出血量と針数5本の割には軽症、不痛)で近くの病院に行き、その後学校に行こうと駅につくと、


駅員が担架を急いで運んでいる。担架にはシートがかけられていて、横たわっているであろう人の様子がわからないのと、通常こういった場合ごたついているはずの周囲の雰囲気は落ち着いているのが奇妙に思われた。ホームに上がるやアナウンス「当駅におきまして人身事故が発生しましたおかげでダイヤが・・・」。二時間ほど前のことらしい。


我があざみ野駅で人身事故というのはここに越してきて15年弱聞いたことがない。そうない機会だと薄情な気持ちで事故の痕跡が目に止まるのを密かに思いながら、病院以来渇いた喉をうるおそうと自販機のあるところまで歩いていく。途中の線路の枕木のブロックに少し赤くぬれている箇所があった。数人の駅員が「もうそれとわかるようなものはないですね」と言いながら駆けていった。


周りの人をみると薄ら笑っている人もいれば、よくあることだと無関心の顔をしている人もいる。はしゃいでいる女の子たちもいた。自分、そしておそらく周りの人々にとっても不幸な事故というよりは好奇心に値するイベントなのだ。そう車内で思いながら、ふと魯迅の「幻灯事件」のエピソードが浮かんだ。


日本留学中、魯迅は授業でスライドを日本人・中国人学生で見ていた。そのスライドの中にはスパイとされた一人の中国人が日本の官憲によって斬首されているものもあったが、魯迅はそれに対して中国人学生が無関心で他人事のようにしているのを見てショックを受けた、というエピソードである。


この魯迅の話はもちろんナショナリズムの文脈で考えるのが重要であるが、自分が思っていたのは「日本人(自分も含め)も魯迅にでてくる中国人と変わらないなあ。何が先進国だ。」、というものであった。


外国にはまれにしか行った事がないが、東アジア各国の国民性を自分なりに考えると、以下のようになる。

日本人:墓を守る石像。風体は人語に落ちぬが、陰険で愛想がない。冷たくツンと澄ましている

朝鮮人:熱血な「おとうと」。よく人を思い遣り、謙譲心篤いが愛憎などの熱い気持ちを内にたぎらせる

中国人:酒の百戦錬磨。常に酔っ払いのごとく自分の意思表示を明確に(時に誇張)示すが、しらふな現実主義からは逸脱しない。


今日は自分の世界観を書きとめようとしたがつい長くなってしまったので、後日にしよう。見出しだけ

「自分とは、世界(神)の一部であり、世界が現出する一時の現象である」

「自分の眼球も道に転がる小石も犬の糞も元来は同じ価値であり、貴賎はない」


奨学金がおりる・・・・

育英金みたいな機関の場合、

当日の午前0時には金振込みされているのかな・・・・


振り込まれてたら深夜営業のバーミヤンに急行、

ラーメンとギョーザ・チャーハン・ビーフン・唐揚げ・・・・・・・

食ってやる。


この十日間の食生活を振り返ると、

前半の5日間は弁当(といっても海苔弁のみの類)をつくったが、家でも食べるようになる。後半になると弁当は作らずに買いだめした板チョコを、

日中一枚でしのぎ、家で夜大食する不健康パターンとなった。

飲み物は家でアイスオーレ(前半は抹茶オーレも)を作ったがこれは貫徹。


自分としては真面目に生きている所存で、決してウケをとろうとかいうのは微塵もないのに、なぜか笑われる人生になっている。もっとも、不羈独歩の行き方をしようとすれば、

そのようなことは覚悟すべきであるが。