十数年生活していた実家が引っ越すことになった。荷物の整理などのため、春から暮らしている一人暮らし先からちょくちょく帰る日が続く。作業はまだ本格的ではなく、物理的な作業は大したことはないが、荷物の整理に関して、持っていくか、捨てるか考えることが面倒である。もともととりあえず取っておく、という性分のため、とりあえず捨てる、という引越しは中々難儀である。小学校のころのものなどで、自分はもう要らない、と思っていても親は捨てれないものもあるし、その逆もある。また捨てることが妥当だと思っているキズ・カビだらけの家具などは、生まれてきたときからあったものでもあり、少し物悲しい。

ゴミ捨て場に捨てた、壊したり束ねたりした古いものが後で回収車によってきれいになくなっている。荷物が出され、すっきりした押入れ、空っぽになった本棚、取り外され、差込口が露になった天井の電灯跡・・・

片付けていくにつれ、自分が生活していた場、慣れ親しんで意識にも上らない雰囲気が変容していくことに気付かざるをえなくなる。空気が変わる。空気をその家の住民であった自分たちが変えている(元に戻している)。空間を自分たちは処理しているのだ・・・

空間、その場の雰囲気というのは不思議なほど可変的である。人が集まっている中で、不意に気難しい人がそこに加わったり、逆に奔放磊落な人が入ってきたり、或いは退席したりすると場の雰囲気が変わる。一つの部屋に衝立を置くだけで空間が二つになったようで急にこもった感じになる。あるいはたまたま向かいの家が空き家になり、ほどなく取り壊されてさら地になったが、何だか急に見渡しがよくなり、家の周りも広くなったようで、あたかも豪邸にすんでいたような感覚になる(じき自分たちもいなくなるが)

こうして見ると、当然といえば当然だが、全ての空間は人の思い次第である。火山の噴火で地形が変化しても、空間がどうであるか、例えば昔からそこに住み慣れていた人なのか、初めてその地を訪れたのが噴火後だという人など、人によって違う。あるいは風景が変わらなくても、人々の中にある空間概念が変わる場合もある。「国破れて山河在り」と漢詩は詠む。 

空間は人の思い。先に述べた部屋を区切る衝立、壊される前の家などのものは、人の思いを創出してきたとも言えるだろう。引越しで捨てるか取っておくかを考えるのが面倒なのは、そのものが発する、人の思いにいちいち対面しなければならないからかもしれない。

妖怪にはもともと古い道具であったものがあり、道具を百年使い続けると魂が入り妖怪になる、という話を聞いたことがある。百年使われ続けるということは、百年人の思いの創出に関与し続けたことでもある。古いものに人々が時に風格を感じたり、逆に気味悪がったりするのはこうしたことにもよるのだろう。

だから気持ちを新鮮にしていたい、という人は物を破棄することで、思いと空間を切り替えるのである。一方その空間を残し、生きている雰囲気を続けたいと思うならば、物は捨てないのは言うまでもなく、時にはその物の色や配置の保全に勤めるであろう。その場でかつて起きた歴史的事件を伝えようとするならば、弾丸で穴の開いた窓ガラス、かけるゆとりもなく置かれたメガネ、当時のテーブル掛けなどを、そのままに(ホコリは積もらないように)しておくだろう。あるいは故人であることを認めたくない場合、その人が使っていた部屋をそのまま、その人がいつ帰ってきてもいい状態にしておくだろう。逆のカテゴリの「葬式」であるが、これはその故人のためというより、そこに集った人のため、と言われる。それは、彼らにとって自分の触れてきた諸空間の一部がその故人によって発することに拠っていたからであり、彼らはその人の不在化に直面して、儀式を通じてその故人と共に(直接的・間接的に)触れてきた空間を処理・再構成するからである。

人々が思いを新たにする場合、その場・空間の変換・改編を行う。では行わない場合、どうなるのか?人がその空間の保全をしない場合、今度はものが変換・改編を行うのである。75年に閉山して人がいなくなった炭鉱の島、「軍艦島」。雑賀雄二は閉山直前に数ヶ月滞在し、閉山後約十年、再び廃墟となった島を訪れた。彼は荒れ果てた建物や住居内をみて、懐かしさやわびしさではなく、騒々しさを覚えたのである。風雨にさらされ、変容・破損することで、ものが、かつての道具という役割から脱し、勝手気ままに自分自身の世界を創出するようになったのだ。終わりは始まり。至言だろう。

ZARDの坂井和泉さんが急死。非常に驚く。今年は秋にアルバムを出し、ツアーをやる予定だったという。自分は全盛期よりもむしろ、2004年、2005年の最近の落ち着きのある作品が好きだった。残念でならない。奇しくも彼女が入院し、志望した病院はこの知らせが入った、その日に「自殺を図った」松岡農林水産大臣が担ぎこまれ死亡が確認された慶応大学病院である。


先日、久しぶりに「同好会」の同期・後輩と飲んだ。その席で後輩から(おそらく口数の少ない自分に気を遣ってくれたのだろう)、「少年のような瞳ですね」と言われた。


それを聞いた自分は思わず、思い出し笑いをしてしまった。漫画「シティ・ハンター」の一シーンが頭に浮かんだのである。そのシーンとは、主人公冴羽獠が依頼主の女の子から「冴羽さんの瞳はまるで少年のよう」、といわれ(このコマの冴羽の顔は真面目?に描かれている)る。しかし、冴羽のパートナーの槙村香から「下半身はこんなですけど」といわれ、案の定冴羽のチ〇コは隆々だった、というものである。(思い出し笑いをするのも当然だが、ほかの人は変に思っただろう)


「シティ・ハンター」を初めて読んだのは、大学一年のときに所属していた「同好会」とは別のサークルの部室である。部室に全巻並べてあった。誰もいない部室で爆笑することはしばしば、女子部員のいる時もニタニタしながらそれを読んでいたことに至っては今更ながら不謹慎さを覚える。


さて、そのサークルに入部したとき、プロフィール用紙を渡され、記入したのであるが、後に先輩のプロフィール用紙を見ることがあった。今印象にあるのはS先輩のプロフィールである。S先輩の用紙の自分の顔の欄(自分はどうでもいい似顔絵を描いた)には、コーヒーを飲むゴルゴ13のコマが漫画からそのまま切り抜かれて貼られていた。そして尊敬する人物の欄には「デューク東郷」と記入されいてた。


S先輩はそのことについてみんなから突っ込みを入れられたが、タジタジになりながらもほとんど真顔で「でもかっこいいよね?」といっていた(不肖宮嶋曰「ゴルゴ13は単にリゾートのプールサイドで寝そべり、女を抱いているのではない。彼はそこで魂の洗濯をしているのだ」)。その時はともかく、数年たった今ではこの心情をよく理解できる。自分にも尊敬する人物として、漫画のキャラクターを挙げたい気持ちがあるのだ。憧れる人物と言った方がより正確だとは思う。


自分ならば、先の冴羽であったり、「花の慶次」の前田慶次、「凌ぎの哲」の達磨といったところだろうか。


冴羽が登場する北条司の「シティ・ハンター」や「エンジェル・ハート」には強者や多数者の論理には還元されえない弱者の立場を理解・表現しようとする姿勢が伝わってくる。また慶次を描く原哲夫の「花の慶次」や「影武者徳川家康」では勝者の歴史から疎外、抹消されてきた「道々の者」、「国」や国家の価値観に縛られず自立的に活動する倭寇や商人などが活々と描かれている(現在連載中の「蒼天の拳」にも同様の姿勢が感じられる。原の価値観とユーモアが凝縮されたレアな短編としては「阿弖流為Ⅱ世」がある)。両者の作品は国家などの大きな集団や組織の価値観に束縛されない自立的な個人を描き、マイノリティを暖かい眼差しで見つめ、彼らと同一の視点から世界を捉えようとするものであり、こうした点には共感を覚える(両者の作品に共通するこうした姿勢とは思想的に対照をなす新潮社の『コミックバンチ』に両者が看板役を担って連載していることは皮肉だ)。北条がともすれば女性の価値観や立場を理解しようと努め、原が概して自立的な男の価値観、論理を浮かび上がらせる点も興味を強く引くところである。


さて、「凌ぎの哲」の達磨であるが、これは原恵一郎の手によるキャラクターである。原恵一郎は知名度が低く、概して「漫画ゴラク」、「漫画サンデー」や「近代麻雀」といった成人向け漫画雑誌に連載する。「少年マガジン」の「哲也」で、阿佐田哲也に人気が出ると「凌ぎの哲」(ここでの哲也は少なからずへまを犯し、姑息である点で原作「麻雀放浪記」の哲也に通ずる)を描き、「週刊モーニング」で「バカボンド」が大ヒットを飛ばし、大河ドラマや映画で宮本武蔵に脚光が浴びると「巌流小次郎」(実は小次郎が決闘後も行き続け、しかも武蔵よりも強かったという点がユニーク)を連載する、時流に迎合する面もある。「だがそれがいい」(by前田慶次)


原恵一郎(原哲夫と作家隆恵一郎からもじった筆名か)の漫画は、梁石日の「血と骨」の世界を思わせるピカレスク(悪漢もの)性、味のあるキャラクター(特に主人公以外のいわゆる敵キャラ)が自分にとって魅力である。(既出の原の作品は入手が困難であるが、現在コンビニ本のかたちで「暴力商売」が再版されている。本作品中の岸和田と森尾、いい味をだしている)


このブログの自分のプロフィールにある画像は、「凌ぎの哲」の達磨である。麻雀で自分が勝つためなら、卓を破壊したり(with蹴り・手刀)、対面の掌を石材の破片で潰す外道であるが、裏切った味方に憐みを抱く面も持つ。こうしたキャラクター性に影響されながらも、自分としてはその風体が気に入った。カッコイイ。


上は色あせたステテコ、腰の腹巻を迷彩のズボンに挟んで編上げブーツを履くその服装もさることながら、一番自分が気に入ったのはその髪形である。側頭部、後頭部はぎりぎりまで刈上げ、前髪が以上に伸びた中分け(自分で勝手に「達磨カット」としていた)。シブすぎる。


そう思ったあげく、自分も同じ髪型にしようと、去年の春から冬前まで頑張った。知人や後輩はその間奇異な眼差しで眺め、親は絶望の余り泣き、怒った。しかし、達磨を「尊敬」する自分としてはむしろ試練とすら思ったのである。今更ながら自分の精神的幼稚さを痛感する。しかし自分勝手な格好をすることと、社会性のある大人であることが両立しにくいことを思うと何だか寂しく感じるところもある。

結局この髪型は、自分が少し天然パーマであること、面長であることなどから自分に馴染まないと判断し、また面接の時期が近づいてきたこともあり、「失敗」としてやめることにした。


それぐらいからであろうか、ちまたで迷彩のズボンにブーツのファッション(一昨年中国に旅行した時、各地で少なからずの若者が同様のファッションをしていた。愛国教育と軍事教練が当たり前の中国ではミリタリーファッションは身近なものである)が流行りだし、今に至っているのである。これなど正に腰から下は「達磨スタイル」、「達磨ファッション」である。


このファッションは、ひょっとすると「凌ぎの哲」達磨に魅せられた者の行動が端の流行かもしれない。


そうかってに思い込むと、俄然自信が出てくる。自分は巷の軟弱な若者と違い、達磨からよりリスキーな髪型をファッションスタイルとして選択したのだと。


まあ、見当はずれも甚だしいと思うが、流行になったり、マスコミで持てはやされた事柄を、それ以前に自分が気に入って親しんだことがある、フリークになったことがある(いわゆるマイブーム)という経験は、自分だけではないはずだ。


達磨はさておき、自分では特にサウンド・トラック(サントラ)については、こうしたことが当てはまる。映画の場合「ザ・ロック」、「地雷を踏んだらサヨウナラ」、「BLADEⅡ」、ゲームの場合「がんばれゴエモン」、「くにおくん」、「三国志」のシリーズなど。CDを借りてきたり、わざわざそのためにゲームをセットしテレビにラジカセを釘付けして録音したりする自分を、親は馬鹿にしており、自分でも恥ずかしく思っていた。しかし数年たってテレビ番組の効果音やサントラで同じ曲が使用されていたりすることがしばしばで、その都度非常に得意な気持ちになるのである。


どんなに社会的に認知されていなかろうが、自分の識見や審美眼が拙劣・幼稚であろうが、感覚的に「カッコイイ」、「おっ」と思ったことは、それはそれとして素直に肯定し、心の片隅に置いておこうと密かに思う次第である。

ブックオフで今日も本を買ってしまった。3冊のうち『漢字と日本人』(高島敏男、文春新書)、『平成剣法心持』(高橋秀実、中公文庫)をだーっと読んだのであるが、後者は無料(大衆洗脳byリクリート)雑誌R25の末尾にあるエッセイ、「結論はまた来週」を隔週執筆している作家で、私はこの作家の記事を読みたいがためにR25をとっている。


『平成剣法心持』の解説部分で、この人の著書「からくり民主主義」を紹介するくだりに「若狭湾の原発銀座」を取材したと述べられていたので、その現場を訪れたことのある私は注意を引いたのである。


ちょうど一年前、学校の授業・課題が全て終了したので、私はJRの「青春十八切符」を使って「日本の車窓から」を実践したのであった。4泊5日、行けるとこまでいくもので上野から、越後湯沢、会津、盛岡、八幡平、秋田、直江津、敦賀、大阪、名古屋、木曾、飯田、豊橋、最後は新幹線(タイムリミットによる裏技)でざっと東京へという行程である。不満だったのはカノ女がいないこと、座りっぱなしで尻が痛くなることぐらいであった。日本としてひと括りにするには罪なほどの各地の多様性、悶絶するほどの自然の美しさに触れることができた。


さて問題なのが3泊目に泊まるべくして終電から降り立ったのが若狭の要衝敦賀である、時刻は23時半を過ぎていた。不本意ながら実体験よりも知識で事象を認識しがちな私にとって、敦賀とは中世以来の由緒正しい近畿で有数の豊かな港町であるはずであった。当然素泊まりの宿屋は容易に見つかるはずである。


しかし、駅まえ(規模としては高田馬場のロータリーぐらい)に受付の閉じた旅館が二軒あるだけである。・・・・クソ寒い。

・・・・・・


非常に深刻な状況である。二軒のうち一つはビルの中にあり、そこで雑魚寝できないこともないが、見知らぬ土地で私は非常に気弱になっていた。すこし歩いてみよう。・・・


表通りは商店街になっているが、不景気なのか、本来そうなのか、開いている店は一軒もない。やがて商店街が途切れたところで十字路があり、そこで閉まりかけの「7&Y」とファミマ、その奥にバーミヤンを発見した。表通りと交わる大き目の通りはどうであろうか・・・


異様である。その通りのとおりにはいくつかの屋台と、いくつかのラーメン屋が開いていたが、駅前の通りを気持ちましにした程度であった。しかし、その通りの脇道がいやに活気があるのである。そこは風俗街であった。それまで人影がほとんど見当たらなかったのに、ここでは背広がぞろぞろふらつき、タクシーも忙しそう、路頭には怪しいイントネーションの日本語で話しかけるお姉さんがあちこちにいるのである。概して、景気がいいのはこの風俗区域だけであり、それ以外は死んでいる街なのである。新宿で歌舞伎町以外はみなシャッター街といった感じである。


「安いよ」 「マッサージ3千円」とか声をかけられつつ一端その場を離れ(3千円はその時の自分にとって大金である)、大通りに戻った。とりあえず腹が減ったので、先のバーミヤンへ。時刻は午前一時くらいか。


バーミヤンでは哀れなほどに禿かかったお姉さんがやってきて案内され、ラーメンを注文。店内は3、4人の学生らしい若い男が寝腐っており、あちこちの卓に片付けていない食器がある。・・・ラーメンをすすっていると、4人の夫婦連れが来店。ボクシングの赤井か金日成かという感じと、すれたマスオさんといった感じの男二人、そしてケバさと地味さを兼ねたような女二人である。女の方は訛りがある。察するに中国人だろう。彼ら話の内容は、仕事の話、日本出の生活、自分らの結婚と仲間にまつわるものなど。自分よりもはるかに苦労してきたんだなあと、非常にわびしい感慨にさせられた。しかし・・・・


死んでいる。バーミヤンだけではない。この敦賀という街は死んでいる。その上風俗街だけが煌びやかで活気がある。まるで「百鬼夜行」である。ここは死後の世界なのかと思わせるほどの奇怪な空間であった。京と越をつなぐ海運の要衝、伝統の港町は一体どうしたんだ!若狭随一の都市ではないのか?    


バーミヤン(午前二時閉店)を出た後も旅館を探すも閉まっているものばかり、途方にくれた。寒い寒い寒い。


屋台がやっていたのでそこに行ってみる。何もしようがないのでまたもやラーメンを(!)。三回くらいオーダーを聞いてやっとこちらを振り向いたビートたけしそっくりなオッサンと、本当にすれ果てた、汚いおば(あ)さん(夫婦ではないらしい)でやっているらしい。「あぶないところへいってはいけないよ」懐かしい警句が頭をよぎる。この屋台非常に悪臭がするのであったが、出されたラーメンは自分が食べたラーメンの中で一番まずかった。


さむい あやしい ねむい くさい まずい このどうしようもなさを紛らわすため、この二人と話をすることにした。自分は東京から来たというと、びっくりした顔で、一度もいったことがないよう。さらに詳しく横浜とまで言ってみるが、どうやら地名だけは認識しているらしいが、それ以外は皆目だめである。


景気はどうだときくと、ここ20年くらい下がだけなのだそうである。でも何であっちの風俗だけ繁盛しているのか、と聞くと、あれは原発の人間が関連先の人を連れ込んでしょっちゅう接待・宴を張っている、だから風俗だけ潤うんだ、と。ここら辺は外国人が多いのかときくと、一番多いのが韓国人、次にロシア人、中国人とのこと。


 街の状況をきいて、屋台を後にする。午後二時半くらい。通りを歩いていくと、朝5時までやっている喫茶店を発見。ここで朝まで始発まで凌ぐか。店に入り、カフェオレを注文。


ここも異様である。内装はル〇アールよりも陰鬱、荘重。照明は胡散臭いシャンデリアであり、卓は電源がついていないゲーム機である。客も客で、茶髪でアイパー、派手なシャツに背広といった「ブタゴリラ」、代ゼ〇のY野先生を膨らませたようなオッサンと、その両脇に私より3歳くらい年下のホステスのような女の子である。このオッサン、セコい喫茶店でガキみたいなホステス両脇に侍らせて何やってんだろう。・・・・


結局、敦賀の「裏街道」パワーに圧倒され、うなだれていた私は始発で敦賀を離れたのであった。この旅行以来、若狭の原発のイメージは夜の妖しい紅い灯りとともに深く脳中に刷り込まれたのである。


奇形な経済だとか、切り捨てられる地方とか言われかねない街だが、無国籍で荒んだこの状況に触れたのもなかなか貴重である。首都圏育ちの天邪鬼にとって「健全」ならざるこうしたものを体験できてよかったと思う。


これからも生き残ってくれ、アバンギャルドの敦賀。 

やっと修士論文提出。結論を述べる中では「我々がまず世界を把握するのは、自分の目で見、耳で聞、身体に触れることによってであり、地図や教科書、規律、民族や国家などによってではない」と偉そうなことを述べ、本論では「清朝」を「身長」とか、いきなり英小文字が交じっていたり、用語の説明をせずに論を進めていたり、散々な論文であったが、ともかくも提出はした。


残虐な事件を起こしたとして、報道権力から新聞の三面記事やワイドショーなどで私たちの世代が白眼視されている。その際、事件の加害者側の小学校の卒業文集を格好の分析素材として暴露されている。


まさかティーンエイジャー入りたてのころの作文が公的記録として全国放送上で扱われるなどは思っても見なかったが、私がもし「容疑者」という身の上になっても、もはや政治学の大学院生として修士論文を提出しているので、心配することはないのである。


論文提出後、博士課程のための研究計画書一万字、受験勉強、今週木曜までのレポート提出などをせねばならないのだが、脱力して今日のことのときまで時に何もしていない。




自分が矢沢永吉の音楽に没頭していたのは高1の終わりごろから。

矢沢ファンにおける「新人類」といったところ。


もっとも缶コーヒーBOSSや漫画「カメレオン」、「湘南順愛組」やテレビの「めちゃイケ」で流れる「ファンキー・モンキー・ベイビー」等で無意識に接していたとは思うのだが、

いかんせんヤクザか不良か、歌手か非常にあいまいなイメージが漂っている感じであった。とにかく「おっかない」という点では一貫していたと思う。



BOSSのCMで変なオッサンがエラそうにしてるな、みたいなことを、ある時テレビをみていてぐちると、

「ああ、矢沢永吉だ。老けちゃったねえ」と親が嘆息し照るのを受け、ハッとした覚えがある。


これがあの矢沢永吉? 当時のCMとしてはサラリーマンに扮した矢沢の意外性が特徴であった。

しかし、自分にとって初めての矢沢はこのエラそーなリーマンだったわけだ。


ちなみにこの時流れていたCMソングは「青空」。90年代の矢沢を代表する曲であり、

『この夜のどこかで』(95年)に収録された。自分としては『HERT』、『永吉』に並ぶまさに90年代以降で最良のアルバムである。


初めて買ったのが中古のライブアルバム『STAND UP!!』。

マスタリングが災いして平板な印象を受けるが、実は矢沢の若さと円熟が絶妙な、今でも飽きないライブテイク集である(リマスタリングを強く希望する)。ライブアルバムというよりは、80年代のライブのテイク集といった方が正確であろう。


当時名曲「チャイナタウン」(『ドアを開けろ』収録。著書『成り上がり』、名曲「時間よ止まれ」など矢沢のブレイクを導く佳作)のリメイクがでた(1998年、セルフカバー『サブウェイ特急』収録)から買ってきてくれと言われて金を貰ったが、

アルバムがわからず(店員に聞くでもすればよかったのだが)、またネコババしてやろうという卑劣な気持ちもあり、中古で買ったのである。


親はミーハーなのか数回聞いて放り出していたようなので、自分ががめてしまった。


ところが聞いてみてもサッパリピンとこない。・・・ その半年前まで「音楽は国を滅ぼす」と思い込み、3ヶ月前ごろドラクエのサントラと井上陽水の『ハンサム・ボーイ』(国民曲「少年時代」収録)を聞いて、なによりCDの音の綺麗さに圧倒され、ようやくサザンを聞いて音楽の消費者の入門を果たそうかどうかという状況であった。


無理もないのである。


しかし、今となっては自分の頭の固さが幸いした。あの名だたる矢沢永吉がピンとこないはずはない、と延々まわし続けた。音楽よりも矢沢の名声ゆえに聞いていたのである。これでは音「楽」ではなかったが、半月くらいするとどうやらいい曲、耳にメロディーが残るものが判然とするようになった。


それぐらいのころ、いつものように「めちゃイケ」を見ていると、また「ファンキー・モンキー・ベイビー」が流された。

「この曲つくづくいい曲だなあ」、とぼやいていると、


また親が「作曲は矢沢永吉だよ」。



?「何ィー!!」。 自分が聞いているあのアルバムとは全然違うではないか!

矢沢のキャリアは30年。声の質にも変遷はあるのだが、素人の自分はただ愕然。


若い頃の作品を漁ってみよう。是非ともこの曲を聞かねば。

3キロ離れたツタヤで『矢沢永吉全集』をレンタル。70年代の曲7割が収録されているものである。

矢沢の初期の名曲をテープ(!)に入れるも、ないのである。


あの曲は・・・・?聞きたい・・・



今度は親にしつこく尋ねる。曲名がわからないので「めちゃイケ」の…から。結構恥ずかしい。

「ファンキー…」が矢沢が初期に結成した『キャロル』のクレジットであることを突き止め、駅前のCDショップで『キャロル・ゴールデンベスト』を買い、ようやくあの曲に再会できたのだった。


しかし、「音楽っていうのはホント不思議だよね」(矢沢、ライブMCの口癖)。


ようやく手に入れた「ファンキー・モンキー・ベイビー」、10分間くらい聞いたら飽きてしまったのである。2分くらいの短い曲でせいぜい5、6回。


今から思えば、それが当たり曲の特質であった。ヒット曲というのは聴いた瞬間ハマるのも多いが、繰り返し聞くと飽きてしまい、時期を置いて聞いてもそうピンとこないものが多い。自分としては桑田啓祐の「波乗りジョニー」、ZARDの「負けないで」、ケツメイシの「さくら」がこれに該当する。


長く続くアーティストはヒット曲だけでなく、地味ながら飽き難い佳曲をえてして持っているのである。矢沢永吉、松山千春などはむしろヒット曲、アルバムはさほど多いわけではない。強烈なオリジナリティと人をして静かにじっくり聞かせる曲を持っているからこそのキャリアだと思うのである。


「ファンキー…」を聞き飽きて(駅前のコンビニの裏で)、家路に就いた。

しかし、自分にとっての矢沢の音楽の魅力は減じることはなかった。

カセットテープには既に名曲たちが住んでいた。